女装と日本人
2009年6月15日 読書記録第4紀(07.10~)
大変エキサイティングにおもしろかったのですが、書きたいことがありすぎるので感想は週末に~。
というわけで週末。
こういう女装論とか同性愛論って、研究者による外側からの研究は本質を突いていないもどかしさがあったり、逆に当事者が語ると主観的すぎてツッコミどころ満載なことになったりするもので、最初に書店でこの本を見かけたときも、また当事者の思いいれたっぷりな本なんだろうと思って手に取りませんでした。
でも、昼間の仕事関係の個人ブログ(おそらく当事者ではない)で評価されていたので、たまたま読む本がなかったこともあって買って読んでみた。
大変エキサイティングにおもしろかった。
大きく前半と後半に分かれていて、前半は、著者が膨大かつ一般的でない多数の文献から、日本の文化における女装の歴史を解き明かす。
後半は、著者が自身の経験を語りつつ現代の女装について解説する。
で、この前半部分が、もちろん著者の学究的な主張に偏ってはいるけれど、アカデミックな訓練が行き届いた記述に非常に安心感を覚えて読み進めました。
大変アカデミックなので、普通に読んだらポ■ノになりかねない部分も普通に読めましたし。
そんなわけで著者の前半の主張は、「古来日本の文化では異性装は宗教や祭りの場で普通に受け入れられていたけれど、明治期の西洋化によって”変態”として認識されるようになった」ということ。
後半は、現代の女装者としての著者の事例を紹介しつつ、混同されやすい「女装者」と「同性愛者」の違いを切り分けるのですが、やはり「自分語り」になるとやや客観性が薄れるものの、まあ読めないほどではありません。
私はあらかじめ、女装と同性愛者の違いは理解していましたが、新宿の繁華街において場所のすみわけが出来ていることは知りませんでした。どちらも二丁目に集まっているのかと思っていたら、前者はどちらかといえば歌舞伎町のほうが中心なんですね。このへん、きちんと地図に店の場所がマッピングされた図があって、非常に参考になりました。(←なんの?/笑)
さらに感心したのが、カトゥーイ(女装)文化の根付いているタイと、その周辺国における祭りでの女装文化、また中国の京劇や朝鮮半島に近現代まで残っていた女装の巫子の文化を引き合いに出して、恐らく東~東南アジアには共通して女装文化が存在していたのだろう、という指摘と、現在、特にタイと日本で女装が受け入れられているのは、この2国が植民地化を免れたために西欧キリスト教の価値観の押し付けを免れたからだろう、という主張。
でも、もちろんそのまま受け入れられない主張などもあります。
例えば、江戸期までは女装は日本の中で文化として受け入れられてきた、日本は女装者に優しい国、といいますが、そうは言っても日本で女装が受け入れられたのは、非日常の存在として、であっただろうと思います。ハレとケでいったらハレの部分でだけ。だから非日常の演出として男女が装束を取り替えるとか、宗教場面で神と人間の仲介としての役割を与えられるとかはあっても、日常の場面で女装はありえなかったと思います。
それは現代のマスコミでの扱いにも感じていて、あらかじめ女装は非日常であって自分たちに直接関係ないパラレルワールドな存在、という前提があるからその存在を許されているように感じています。西欧の近世の宮廷にいた道化や小人みたいに思えるんです。
それって、果たして本当に「女装者に対して寛容」と言えるのかな……?
日本でも、非日常の存在である女装者がいきなり日常に割り込んできたら、つまり、ブラウン管の向こうとか夜の街とかでなく、職場の隣の席に女装者がいたら、やっぱりかなり激しい排除にあうんじゃないかと思うんですが、どうだろう?
まあ、キリスト教原理主義な人たちにいきなり撃たれる心配はないだけましなのかもしれませんが。
知人の職場の後輩の男性が、ある日を境にいきなり女装で勤務し始めた、という話を聞いたことをふと思い出しました。いきなり解雇とかいじめとかって話にはならなかったと聞いたと記憶していますが、やはりしばらくして退職したとのことでした。
もうひとつ、それは違うんじゃないかと思ったのは、この本でなくてこの著者が先週発売された週刊誌のコラムに書いていたことなんですが、ゲイタレントや女装者のメディア露出が多いのに対して、レズビアンや女性の男装者は、メディアでもほとんど取り上げられず、不可視化されているのを問題視していました。
それは、見るほうも見ないようにしているのかもしれませんが、見られるほうも見られないようにしているのではないかと思います。
卑近な例で言えば(笑)、男性のオタクがメディアでもよく取り上げられてある種のステロタイプなイメージが一般に浸透しているのに対して、腐女子がほとんど話題にならず、いっとき乙女ロードや執事喫茶が話題になってもすぐに沈静化するのって、腐女子の大部分が「メディアにおもしろおかしく取り上げられたくない」「世間に迷惑を掛けずにこっそり好きなことをやっているんだから、ほっといて」というメンタリティでいるからだと思います。
同じことが、男装者やレズビアンの人たちにも言えるんじゃないかなぁと思うのです。
それって、男性と女性の基本的な考え方の違いだと思います。
男性って、社会で自分が認められることに価値を置いているから、自分たちを評論したり、自分たちのことを語ったりしますけど、女性は基本的に、世間に受け入れられれば認められる必要性を感じてないんじゃないかなぁ。名より実を取る、というか。
もちろん、女性の中でも社会で認められたいと思う人もいるでしょうし、実際に生活上不都合を感じたときには、自分たちの存在を社会的に認められて権利を取得するほうに動こうとしますけど、そういう実利がなければあえて摩擦を起こそうとしないでしょう。
そういう意味で、この本の著者も、そういう部分では男性脳なんだろな、と思ったり。
なんていろいろと考えさせられる、という意味でエキサイティングな本でした。
というわけで週末。
こういう女装論とか同性愛論って、研究者による外側からの研究は本質を突いていないもどかしさがあったり、逆に当事者が語ると主観的すぎてツッコミどころ満載なことになったりするもので、最初に書店でこの本を見かけたときも、また当事者の思いいれたっぷりな本なんだろうと思って手に取りませんでした。
でも、昼間の仕事関係の個人ブログ(おそらく当事者ではない)で評価されていたので、たまたま読む本がなかったこともあって買って読んでみた。
大変エキサイティングにおもしろかった。
大きく前半と後半に分かれていて、前半は、著者が膨大かつ一般的でない多数の文献から、日本の文化における女装の歴史を解き明かす。
後半は、著者が自身の経験を語りつつ現代の女装について解説する。
で、この前半部分が、もちろん著者の学究的な主張に偏ってはいるけれど、アカデミックな訓練が行き届いた記述に非常に安心感を覚えて読み進めました。
大変アカデミックなので、普通に読んだらポ■ノになりかねない部分も普通に読めましたし。
そんなわけで著者の前半の主張は、「古来日本の文化では異性装は宗教や祭りの場で普通に受け入れられていたけれど、明治期の西洋化によって”変態”として認識されるようになった」ということ。
後半は、現代の女装者としての著者の事例を紹介しつつ、混同されやすい「女装者」と「同性愛者」の違いを切り分けるのですが、やはり「自分語り」になるとやや客観性が薄れるものの、まあ読めないほどではありません。
私はあらかじめ、女装と同性愛者の違いは理解していましたが、新宿の繁華街において場所のすみわけが出来ていることは知りませんでした。どちらも二丁目に集まっているのかと思っていたら、前者はどちらかといえば歌舞伎町のほうが中心なんですね。このへん、きちんと地図に店の場所がマッピングされた図があって、非常に参考になりました。(←なんの?/笑)
さらに感心したのが、カトゥーイ(女装)文化の根付いているタイと、その周辺国における祭りでの女装文化、また中国の京劇や朝鮮半島に近現代まで残っていた女装の巫子の文化を引き合いに出して、恐らく東~東南アジアには共通して女装文化が存在していたのだろう、という指摘と、現在、特にタイと日本で女装が受け入れられているのは、この2国が植民地化を免れたために西欧キリスト教の価値観の押し付けを免れたからだろう、という主張。
でも、もちろんそのまま受け入れられない主張などもあります。
例えば、江戸期までは女装は日本の中で文化として受け入れられてきた、日本は女装者に優しい国、といいますが、そうは言っても日本で女装が受け入れられたのは、非日常の存在として、であっただろうと思います。ハレとケでいったらハレの部分でだけ。だから非日常の演出として男女が装束を取り替えるとか、宗教場面で神と人間の仲介としての役割を与えられるとかはあっても、日常の場面で女装はありえなかったと思います。
それは現代のマスコミでの扱いにも感じていて、あらかじめ女装は非日常であって自分たちに直接関係ないパラレルワールドな存在、という前提があるからその存在を許されているように感じています。西欧の近世の宮廷にいた道化や小人みたいに思えるんです。
それって、果たして本当に「女装者に対して寛容」と言えるのかな……?
日本でも、非日常の存在である女装者がいきなり日常に割り込んできたら、つまり、ブラウン管の向こうとか夜の街とかでなく、職場の隣の席に女装者がいたら、やっぱりかなり激しい排除にあうんじゃないかと思うんですが、どうだろう?
まあ、キリスト教原理主義な人たちにいきなり撃たれる心配はないだけましなのかもしれませんが。
知人の職場の後輩の男性が、ある日を境にいきなり女装で勤務し始めた、という話を聞いたことをふと思い出しました。いきなり解雇とかいじめとかって話にはならなかったと聞いたと記憶していますが、やはりしばらくして退職したとのことでした。
もうひとつ、それは違うんじゃないかと思ったのは、この本でなくてこの著者が先週発売された週刊誌のコラムに書いていたことなんですが、ゲイタレントや女装者のメディア露出が多いのに対して、レズビアンや女性の男装者は、メディアでもほとんど取り上げられず、不可視化されているのを問題視していました。
それは、見るほうも見ないようにしているのかもしれませんが、見られるほうも見られないようにしているのではないかと思います。
卑近な例で言えば(笑)、男性のオタクがメディアでもよく取り上げられてある種のステロタイプなイメージが一般に浸透しているのに対して、腐女子がほとんど話題にならず、いっとき乙女ロードや執事喫茶が話題になってもすぐに沈静化するのって、腐女子の大部分が「メディアにおもしろおかしく取り上げられたくない」「世間に迷惑を掛けずにこっそり好きなことをやっているんだから、ほっといて」というメンタリティでいるからだと思います。
同じことが、男装者やレズビアンの人たちにも言えるんじゃないかなぁと思うのです。
それって、男性と女性の基本的な考え方の違いだと思います。
男性って、社会で自分が認められることに価値を置いているから、自分たちを評論したり、自分たちのことを語ったりしますけど、女性は基本的に、世間に受け入れられれば認められる必要性を感じてないんじゃないかなぁ。名より実を取る、というか。
もちろん、女性の中でも社会で認められたいと思う人もいるでしょうし、実際に生活上不都合を感じたときには、自分たちの存在を社会的に認められて権利を取得するほうに動こうとしますけど、そういう実利がなければあえて摩擦を起こそうとしないでしょう。
そういう意味で、この本の著者も、そういう部分では男性脳なんだろな、と思ったり。
なんていろいろと考えさせられる、という意味でエキサイティングな本でした。
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